生活片段之感CXIV ~時の声~


(一)時を超えて
やっと「大正ロマンス」を読み終わった。

この小説をもとにしてYOASOBIは「大正浪漫」という曲を作ってきた。現代の少年と大正時代の少女が一通の手紙を通する出会い物語だと述べられた。小説を読んでからもう一回PVを観に行ってみてやっぱり毎一幕の裏もいきなり理解できてきた。

その通りに手紙でもスマホでも僕達は今文字でどこかの誰かに自分の気持ちを届けることが実現できるんだって。この時代に画面と映像がもう主流になってるのに、自分の手で心を込めて書き込む何かが、僕にとって価値と温度がもっと感じられるのだろう。

たぶん僕のブログは時を超えるそのような手紙になって過去や未来の僕に何かを届いてるんだね。

(追伸:よろしいでしたら、私のブログにお越しになっていただけましたら嬉しいです→ v.ht/euvin

ちなみに、ブログの名前「歩歩為營」とは、日本語で釈明したら、「石橋を叩いて渡る」と意味です。)

((一)跨越時空
終於讀完了《大正羅曼史》。

YOASOBI根據這部小說寫了<大正浪漫>這首歌,講述現代少年和大正時代的少女透過信件相會的故事。讀完小說再去看一遍PV,果然能夠立即理解每一幕背後的含義。

是啊,無論書信還是手機,我們如今能夠藉由文字將自己的心聲傳達給某個地方的某個人,雖然在這個時代,畫面和影像已成為主流,但親手寫下的由衷的文字對我而言可以感受到更多的價值與溫度。

或許我的部落格就像跨越時空的信件,正把什麼傳遞給過去或未來的我。

追伸:歡迎到我的部落格→ v.ht/euvin

順便說一下,部落格名稱「歩歩為營」用日文解說的話,意思是「一邊敲打石橋一邊橫渡」。)


(二)長い目で見ると
人生にはすべてが順調のあまりのなら、時に少しだけ不順や予期以外の出来事に遭ったら、落ち着けなくてその不幸に向き合わないようになるかもしれない。

そう言えば、実はちょっと苦しい人生の道は、長い目で見ると、心身と人柄の発展に良いはずでしょう。

欲しい何も必ず簡単に貰えると世界が自分の手で握りやすいとこんな思いがあるかもしれない。だからそれら挫折は私達が強くなることの栄養なんだろう。

いつも忘れないように。

((二)長遠來看
過於順遂的人生,在偶爾遭逢些許不如預期的挫敗時,可能會難以冷靜自持,變成不願面對那樣的不幸。

這麼說的話,事實上稍微苦難的人生道路,若以長遠目光來看,對身心和人格發展都是好的吧。

想要的東西就一定能輕鬆得到的話,或許便會以為世界掌握在自己手中。因此那些挫折都是讓我們變得更強的養分。

希望時時銘記這一點。)


(三)今日の笑顔
遠くの知り合いが亡くなったことを聞いた。なんとなく一時的に切なさか不真実な思いが心に佇んでた。最後の出会ったきりもう10年超えを経ってたと思うけれど、SNSを通じて時にあの人のことが見えるため、なんか周りにいるらしさを見慣れると言える。

突然として一人がそのまま無くなった。もう長い時に話し合ってなくてもかつて親しくて友達以上に至ってかけがえのないの存在になったその人がこれから去ったのは、まだ少し悲しみを意識したものだ。

この世とこの時代に生きてるのは、命がどれ時よりも脆弱になったのだろう。遥かのような死亡がいきなり家の扉や窓の外にいるほど近くなっちゃった。毎日死亡人数が増えつつあって、ある時期にもしかしたらもうすぐ私の番だかの悲観な思いは脳内に浮き出さずにはいられなかった。

だから今日の笑顔を大したことにするのは重要な小さなことはずだのではないだろうか。誰も明日の出来事が保証できるどころか、次の時間や分にも何に私達はされるのが確認できないから、この今を送り尽くしていってしかたがない。

それら先に旅立ってた人々って、しっかり心の中に置いてから自分の顔を上げてみて迷わずに踏み続けていこう。

((三)今天的笑容
聽聞遠方的友人離世。不知怎的,一時間悲切的不真實感湧上心頭。自從最後一次碰面已經過了10多年了,但透過社群網站偶爾還是會看到那個人的點滴,可以說彷彿就在我的周圍那樣看慣了。

突然間一個人就那樣消逝了。即使已經好長一段時間沒說話,那位曾經非常要好、好到友達以上甚至無可取代的人自此告別,仍不免感到些許悲傷。

活在這個世間這個時代,生命比起任何時候都顯得更脆弱。原本遙遠的死亡忽然像來到家門外那般近在咫尺。每天的死亡人數持續增加,有一段時期我的腦海總忍不住浮現說不定很快就輪到我了的悲觀想法。

因此好好珍視今天的笑容應是一件重要的小事。沒有人能保證明天的事,更無法確認下一小時下一分鐘我們將發生什麼,所以我們只能竭盡所能地把這一刻當下過好。

那些先行上路的人們,我們把他們安放在心底後,就要抬起頭來毫不猶豫地繼續跨步踏出去。)


(四)小さな僕達
今回は、YOASOBIの新曲「ツバメ」の原作小説を読んだ。作者は15才の中学生だけど素敵で人の心を感動する物語を作ってきたのだった。

原作のタイトルは「小さなツバメの大きな夢」で、環境議題や動植物と人間の関係など話した。中小学生向けの小説だけれど大人たちにとっても面白く読めると思う。

大人になったからというもの、時に単純なことが忘れやすくなったから、子供の視点からこの世界を観察したら複雑な物事が簡単になれるのではないだろうか。

この小説のテーマのように、小さな自分の小さな行為は、できるだけやり続けていくときっといつか大きな何かができるんだよとつくづく信じてる。

ちなみに、「ツバメ」のミュージックビデオは年齢が違う子供のダンサーたちが色とりどりのバックドロップの前に一緒に踊ってた。本当に可愛いのでしょ?

(追伸:こちらに「ツバメ」のMVをご覧ください)

((四)渺小的我們
這次讀了YOASOBI新歌《燕子》的原著小說。作者是一位15歲的中學生,卻寫出了精彩而動人心弦的故事。

原著標題為《小燕子的大夢想》,談論環境、動植物與人的關係等議題。雖是針對中小學生的小說,不過我覺得對大人而言也很有趣。

長大成人以後,我們有時會很容易忽略單純的事物,因此若能從孩子的視角觀察這個世界,複雜的人事也會變得簡單許多吧。

就像這部小說的主題,渺小的自己的渺小行為,若盡可能地一以貫之,我深信總有一天一定能成就大大的什麼。

順帶一提,《燕子》的MV是由一群不同年齡的小朋友在色彩繽紛的佈景前一起跳舞,非常可愛不是嗎?

追伸:請點擊這裡觀看《燕子》MV。)


(五)ナシケラブ
去年の夏にトレンガヌに旅行に行ったとき、ついに地元のナシケラブを食べてみたんだった。マレー料理の中でいつもこの青いご飯が大好きなんだから、ナシケラブの発源地の東海岸に来たら本場なナシケラブを食べずには済まなかった。

その旅から帰ったきり、ほとんどもうナシケラブを食べてないものだった。南部のマレー社会にはこの料理がそんな普及じゃないし、あったら味もちょっと正統じゃないから、トレンガヌのナシケラブが相当に懐かしいと言える。

といったからある日、自分で作ってみようって、簡素化バーションのナシケラブを準備した。ウラームというサラダがなかったけれど塩漬けアヒルの卵とココナッツスライスと青いご飯があったから、味としてだいたい記憶と似合うわけだった。

食欲のことを除いて東海岸の連なってる群青の海にハマってずにはいられない。いつあそこにもう一回行けるの?

((五)藍花飯(Nasi Kerabu)
去年夏天到登嘉樓旅行時,終於吃到了當地的藍花飯。馬來料理當中,我最喜歡這個藍色的飯,所以到藍花飯發源地的東海岸的話,不吃吃看道地的藍花飯可不行。

從那趟旅程歸來後,就幾乎沒再吃過藍花飯了。南部的馬來社會中,這道菜餚不太普及,即使有也不是正宗的味道,因此可以說我相當懷念登嘉樓的藍花飯。

於是有一天,想說來自己做做看吧,製作了簡化版的藍花飯。雖沒有叫做「Ulam」的馬來沙拉,但有鹹蛋、椰絲和藍色的米飯,所以味道上大體和記憶中的一樣。

除卻對食物的追求,我非常醉心於東海岸連綿不斷的湛藍色海洋。什麼時候可以再去一趟呢?)


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以上は日本語で文章を書く練習です。
文法と語彙の使い方などは間違いがたくさんあるかもしれないので、どうぞよろしくお願いいたします。

最後まで読んでくださった皆さん、ありがとうございます。

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