生活片段之感CXI ~集めたカケラ~
(一)本気
「結末はボクシダイだ」
「結末はボクシダイだ」
実はここ数年の中に、もうあゆのミュージッククリップを期待しなかった。いつでもあゆのPVが甚だ皆を惹いたけど、いつの間に、製作とかプレゼンテーションとかその魅力がだんだん消えちゃったと言われた。音楽の産量も減ってきた。
でもこのPVを見た後、今回のカムバックが本気そうだと思う。せめて前のいくつのPVに比べて、これの水準が思ったよりすごかった。めっちゃカッコいいなあ!
次のは、ファンとして、久しぶりのニューアルバムを楽しみにしてもいいの?
((一)認真
「結局由我決定」
其實這幾年來,我已經不再期待あゆ的音樂影片了。あゆ的PV不管什麼時候都非常受矚目,但不知不覺間,無論製作還是呈現,據說那樣的魅力已漸漸消失。音樂產量也減少了。
但是看了這個PV後,我覺得她這次的回歸是認真的。至少與之前的幾個PV相比,這個PV的水準比想像中好。真的超酷的!
接下來,作為粉絲,我是否可以期待久違的新專輯呢?)
(二)夕霧花園
マレーシアのキャメロン高原で撮影された映画「夕霧花園」は今月24日に日本に公開されます。マレーシア作家のタントゥアンエンさん(Tan Twan Eng)の同名文学小説をもとに「夕霧花園」は日本統治下のマラヤを背景に歴史と悲恋を描いた物語です。
私が大好きな二つの元素はこの映画に集まりました。それは日本の庭園設計と地元の高原景色を映画に微妙に溶け込んでいました。
最近日本メディアからの報道が多くなってきたので、マレーシアとともにキャメロン高原が日本人に紹介されています。国内の美しい風景やマルチレーシャルカルチャーを海外の皆に薦めらせていただきますように。
ちなみに、夕霧花園は架空されたところですが、真実に存在すればいいのに。
(追伸閲読:《「夕霧花園」によるキャメロン高原に行った》)
((二)夕霧花園
於馬來西亞金馬崙高原拍攝的電影《夕霧花園》將在本月24日在日本公映。根據馬來西亞作家陳團英(Tan Twan Eng)的同名文學小說作為基礎的《夕霧花園》,是一部以日治時期的馬來亞為背景描述的悲劇愛情故事。
我最喜歡的兩大元素集結在這部電影裡,日本的庭園設計和本地高原的景色被巧妙地融入這部電影中。
由於最近有許多來自日本媒體的報導,馬來西亞連同金馬崙高原一併被介紹給了日本人。我希望能向海外的各位推薦我們國內的美景和多元種族文化。
順帶一提,夕霧花園是虛構的場景,不過我真希望它真實存在。
延伸閱讀:走進《夕霧花園》裡的金馬崙高原)
(三)8月9日
76年前の今日、歴史性の一日です。
2年前の春長崎の平和公園にいました。あの朝太陽が眩しくても温暖が感じられたのをまだ覚えてます。公園に観光客が少なかったので静かで周りの雰囲気も和らぎになりました。
平和祈念像に歩いて来てきれいな花束がそこにたくさん置いてあったに気づきました。そして隣の爆心地公園へ向かってその黒い柱の記念碑が著しく立たれたのを見ました。
ここからすべての悲しみが始まりました。ここまで残酷な戦争が終わりました。こんな感想がありました。今日の私達がこんな時代に生きていくのは簡単じゃないけれど、せめて厳しい損失と犠牲による獲得した平和を大事にすべきです。
あの日空が広くて顔に吹いてきた風が気持ち和んでたと覚えてます。
(追伸閲読:《我慢ーー長崎原爆現場を訪ねた》)
((三)8月9日
76年前的今天,是歷史性的一天。
兩年前的春天,我來到長崎的和平公園。我仍記得那個早上的太陽眩目但溫暖。公園裡的觀光客很少,因此周圍的氣氛安靜而祥和。
走到和平祈念像前,發現那裡擺著許多漂亮的花束。接著前往隔壁的爆心地公園,看到了醒目矗立在那裡的黑色柱狀紀念碑。
所有的悲傷從這裡開始,殘酷的戰爭到這裡落幕。有這樣的感想。雖然今時的我們要在這樣的時代活下去並不簡單,但至少應該珍惜透過嚴重損失及犧牲獲得的和平。
我一直記得那天的天空很廣闊,吹拂在臉上的風很舒緩。
延伸閱讀:我慢——走過長崎原爆現場)
(四)選択肢
「結末はキミシダイだ」
他人に自分の決定をジャッジさせるより、自分の選択をもっと信じるべきだ。
迷う時があったら、心の声を聞いてみて、そして絶対に前に気をつけてなかった何かが見かけられる。そこから、次の一歩を踏み出す力がきっと現れる。
((四)選項
「結局由你決定」
與其讓他人評斷自己的決定,更應該相信自己的選擇。
困惑的時候何妨傾聽心聲,你絕對能發現之前沒注意到的什麼。從那裡必定會湧現踩踏出下一步的力量。)
(五)多分
かつてあんなに気にしてたことは、時間が巡行してゆくことに従って、もうだんだん忘れちゃったに気づいた。
誰に自分の心の中に刻ませたあの人の顔と声と姿は消えられなかったと思ってたけど、実は今振り向いてみるとたとえ傷跡が見えてもなんか痛みが感じられない。つまり、気になってた誰かが残らなかったみたい。
誰のせいかって、今探し出してみることは意味がないじゃない。
悪いのは誰かって、もし今答えなければならないのなら、僕のせいだと言うつもりだ。
たぶん。
((五)或許
曾經那麼介懷的事,隨著時間流逝而去我才發現已經漸漸淡忘。
我以為讓誰刻在自己心中的那個人的容顏、聲線及姿影無法消散,不過其實現在回首,即使看得見傷痕也感覺不到痛楚了。也就是說,我曾在意的某個人似乎不留痕跡了。
是誰的錯呢,如今試圖找出答案也毫無意義了不是嗎。
錯在誰身上,若今天務必回答這個問題,我打算說是我的錯。
或許。)
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以上は日本語で文章を書く練習です。
文法と語彙の使い方などは間違いがたくさんあるかもしれないので、どうぞよろしくお願いいたします。
最後まで読んでくださった皆さん、ありがとうございます。
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